「ひとまず、ここから先のことはマジェスタ殿にお任せしたほうがいいだろうな」 ケンゾーが自らの孫であるカイトと妻であり女王のセルリアンとの謁見を締め括るように言うと、マジェスタは「かしこまりました」と応じて深々と頭を下げた。 マジェスタとともに謁見の間を出たカイトは、枢密院の議長としての執務室ではなくマジェスタが王宮内に私用で持つことを許されている書室に案内された。 書室は二十畳ほどの広さで、書室の名が示すとおりに壁一面の本棚には書物がぎっしりと収まっていた。 部屋の中央に置かれた大きな地球儀のようなものの前で立ち止まったマジェスタは、「閣下は聡明にして沈着であられます。早速ですがこの世界と、この国について説明などさせていただきたく存じます」 と趣旨を提示することから会話を切り出した。「はい。お願いします」 カイトが素直にうなずくと、マジェスタは穏やかな微笑を浮かべた。「閣下はダイキ卿のご子息。ダイキ卿にこの世界のことを説明したのも私めにございますれば、この世界と閣下がおいでだった世界の相違も把握しております。どうかご安心くださいますよう」「はい……あの、一点だけよろしいですか?」「なんでございましょう?」「俺に対して、そこまであらたまった話し方をする必要はないんですが……」 遠慮がちに言うカイトを見たマジェスタは、目を丸くして驚きの表情を見せたかと思うと声を上げずに小さく笑った。「これは、失礼を。ダイキ卿も会話の始まりに同様のことを仰っておられたと、思い出したのです」 マジェスタが笑いを漏らした理由にダイキの名を挙げるのを聞いたカイトは、(父さんの異世界ファンタジーもこんな感じで始まったのかな……) と思い出と呼べる記憶のない父親への想いを短く巡らせた。「……そうですか、父も」「ダイキ卿も聡明であられましたが、打ち解けた会話を好まれる方でした。酒を好むダイキ卿に誘われ、夜更けまで酒席で語らうこともありました……分かりました。少し話し方を崩しましょう」 マジェスタの口調から、カイトは父親が好人物だった印象を受け取って安心した。「はい。お願いします」「では閣下。このテルス儀をご覧ください。この星、テルスには四つの大陸がございます。アフラシア、ゴンドワナ、アウストラリス、アンタークティカ。そして、我々のいるミズガルズ王国は……
「マジェスタ様! ダイキ様の御子息はこちらにいると聞きました!」 弾む声で一方的に用件を口にするビキニアーマーを身に着けた女性は、意志の強そうなアーモンド型の目をカイトに向けるや、「あっ! あなたですか!」 と張りのある声を上げた。 「ヴェルデ王女殿下……なんという恰好で……」 マジェスタが呆れ返った顔で発した咎める声に、ペロッと小さく舌を出すだけで返したヴェルデは、ツカツカとカイトの目の前まで近寄った。 ヒールの厚いブーツを履いているヴェルデの目線は、平均よりやや高い程度とはいえ百七十四センチはあるカイトとほぼ同じ高さだった。 光沢すら帯びて見えるパンッと張ったヴェルデの豊かな胸の膨らみにどうしても目が行ってしまうカイトは、異世界に来てから感情と行動に抑制が効いていたはずの自分が、ここにきて丸っ切り動揺してしまっていることに驚きを持った。 動揺を隠せないカイトへ快活な笑みを向けたヴェルデは、「はじめまして。わたくしはヴェルデ。王太子ダンドラの長女で、十八歳です」 と自己紹介を述べながら右手を差し出して、カイトに握手を求めた。「あ、はじめまして。えー、カイト・アナンです。二十歳です」 わずかに上擦ってしまった声のトーンを抑えようとしながら答えたカイトが、微苦笑を浮かべながら握手に応じてヴェルデの右手を握ると、ヴェルデは満面に笑みを浮かべてみせた。 こんもりと主張する露わになった胸元へ視線が行ってしまわないように、カイトは眼球のコントロールに意識を集中させた。 ビキニアーマー。 最近でこそコスプレにおけるファンタジー作品の衣裳として、実在の女性が身に着ける姿も見受けるが、基本的にはファンタジー作品の世界でしか存在しえないビキニとアーマーという相反する性質の融合。 ファンタジーが産み出した倒錯の結晶とも言うべきビキニアーマーを、ヴェルデの肌から匂い立つ香水の薫りすら届く距離で目の当たりにしたカイトは胸のうちで喝采した。(ビキニアーマーだよ! やっと、やっと出たんだ。異世界ものらしいファンタジーならではの恩恵が今、目の前に……!)「カイト様。あなたが、わたくしの夫になられるのですね」 ヴェルデが快活に言い切った言葉で我に返ったカイトは、「え!?」 と素っ頓狂な声を上げてしまった。 ヴェルデの口から出た「夫」という想定外の単語
「俺の結婚に関わる話、というか俺が結婚する前提で、もう話は進んでるってことですか?」 カイトが率直に尋ねると、マジェスタは若干の間を置いてから答えた。「いずれ分かることを隠すような愚は演じません。申し上げます。閣下には王族ないし名家、具体的には御三家いずれかの令嬢と結婚していただく運びで事は既に運んでおります」「……それは、もう決定事項なんですか?」 感情的に否定や驚きで反応することなく確認する問いに徹したカイトに対し、マジェスタはゆっくりとした首肯を返した。「王配殿下の血縁であろう次の召喚に応じられた方は、すなわち聖魔道士であり王配殿下の直系。その方にはこの国で結婚し家庭を持って、ミズガルズの地に根を下ろしていただく……政治的な背景があることは否定できませんが、女王陛下と王配殿下も望んでおられる筋書きでございます」「……そうですか」「閣下は二十歳であられるとなれば、ことは重畳、適齢であられます」 予期しなかった角度で最初に「閣下」と呼ばれた理由が効いてきたとカイトは感じた。 (転移した異世界でいきなり貴族ルート確定。しかも王配の直系ならマジェスタさんが言ってた「こうしゃく」は公爵ってことだろう……いきなり公爵になった異世界でハーレを築く、なんてエロゲーみたいな展開が許される雰囲気の世界じゃないってことは、もう分かってた。でも実際、自分が結婚するかもって状況になると……)「俺がいた世界、日本の感覚じゃ二十歳はまだ早いんですが……ミズガルズでは適齢ですか?」 カイトがありのままの感覚を明かしながら問いで返すと、マジェスタはすぐさま首肯した。「はい。特に王侯貴族の御子息が婚約する年齢としては適齢です。ミズガルズ王国の法律では女性は十六歳、男性は十七歳が婚姻適齢であり、結婚が可能となります。昨今の王侯貴族にあっては、幼少のみぎりに婚約を済ませる事例は減少し、法律に沿った婚姻適齢の前後に婚約する例が増えております」「……それで、先ほどのヴェルデ王女殿下が、俺の婚約者に決まったってことですか?」 諦観に傾く感じを含んだカイトの言葉に、マジェスタは小さく首を横に振ってみせた。「いえ。今はまだ候補者の一人です」「……候補者ってことは、すぐに決められる訳ではないんですね。お互いに考える時間はある、と……ヴェルデ王女殿下は乗り気のようでしたが……」
カイトの様子を配慮したマジェスタは少しの間を置き、コホンと小さく咳払いしてから次の説明に移った。「順序が前後してしまいましたが、この世界の説明を続けましょう。よろしいですか?」「はい。お願いします」「テルスの世界情勢はまさに激動の時代を迎えております。それは蒸気機関や内燃機関などの急速な発達とも重なるのですが……まずはセナート帝国について申し上げましょう」 マジェスタが地球儀に酷似したテルス儀をふたたび指差す。 セナート帝国と聞いたカイトは「父さんのいる国か」と思いながら、マジェスタの人差し指が指し示す大陸を注視した。「その領地が大陸の東端にまで達したセナート帝国は二年前、我がミズガルズ王国に宣戦布告すると国境の島であるペアホースへと攻め込みますが、ダイキ卿が投降するとあたかも目的がそれであったかのように兵を引き揚げました。現在は和睦が成立し、国交も回復しております」「二度目はないと言い切れる状態なんでしょうか」 すぐさま問いで返したカイトに、及第点を与える教師のような首肯をみせてからマジェスタは答えた。「断言できないのが現在の情勢です。セナート帝国は今やテルスで最も大きな大陸であるアフラシア大陸の覇権国家となっております。北はツンドラの地、南はヒマアーラヤ山脈にまで達し、西にあっては次々に小国を飲み込み、現在はピャスト共和国、ロムニア王国、オルハン帝国と接する長い西方戦線を形成しています。セナート帝国のシーマ皇帝は大帝とも称され、パスクセナーティカとも呼ばれる大陸の安定と繁栄を築き始めています」 マジェスタが説明したテルスの情勢を、カイトは地球に当てはめて考えてみた。 ロシアと中国にモンゴルやカザフスタンを合わせたよりも大きな領土を持つ国。途方もない大国だとは思ったが、スケールが大きすぎることで、カイトはぼんやりとしたイメージでしか捉えられなかった。「言葉を選ばずに訊きます。ミズガルズ王国とセナート帝国では、国力の差が歴然としているように思うんですが……」 カイトのストレートな感想をマジェスタはすんなり肯定した。「残念ながら、その直感は合っております。セナート帝国が本気で東征を考えれば……さらに申し上げますと、海洋覇権国家であるブリタンニア連合王国が南方の国々を次々と植民地化しており、その動向も注視しなくてはなりません。さらには、目
カイトを引き連れてエルヴァが向かったのは、王宮の左翼に当たる棟の最奥に位置する地下への入り口だった。 地下への入り口に立っていた守衛の男から、灯されたランタンを受け取って地下へと続く階段を下りるエルヴァに、カイトは無言で付き従った。 地下には一つだけ扉があり、エルヴァは真っ黒な鉄で補強された異様に頑丈そうな扉をあっさり開けると、振り返ってカイトに声をかけた。「ここは禁書庫だよ」 ランタンを軽く掲げたエルヴァは苦笑いを浮かべていた。「僕は暗いところが苦手でね。さっさと済ますとしよう」「あ、はい。禁書庫、ですか……」 禁書庫という響きに微かな興奮を覚えたカイトは、ランタンの灯りだけを頼りに禁書庫だという狭い空間に目を凝らした。 狭く空気の籠もった禁書庫の中には、これも必要以上に頑丈な造りが見て取れる大振りな四架の書架だけが整然と並んでいる。 迷いのない挙動で奥の書架に近付いたエルヴァは、「とりあえず一冊でいいかな」 とカイトが聞き取れる程度の声で言いながら一冊の書物を手に取った。「え? 持ち出すんですか? 禁書、なんですよね?」 カイトは驚きを疑問に含めたが、それに答えるエルヴァの口調はいたって軽いものだった。「ああ、問題ないよ、僕は自由に使っていいってことになってるから」 エルヴァは「はい、これ」と気楽な調子で、分厚い革表紙の禁書をカイトに手渡した。 ざらりとした手触りの革表紙が妙にひんやりとしているのを感じながら、カイトが手渡された禁書を胸に抱える。「よし、出よう。暗くて狭い場所は僕のテリトリーじゃない」 嫌気を滲ませてツカツカと禁書庫を出るエルヴァの後に続き、カイトも禁書庫を出て足下の暗い階段を上った。 禁書庫を後にした二人は、王宮の左翼に当たる同じ棟の中央付近に位置する部屋へ移動した。 中庭に面した部屋の窓のサイズが、地球の十九世紀末とほぼ同程度だという時代には有り得ないほど大型で、その採光によって白を基調とした部屋は禁書庫と対極にあるように明るかった。「僕の執務室ってことになってる。まあ、ほとんど使ってないけどね。あ、本はそこに置いて」 エルヴァが部屋の中央に置かれた天板が分厚い机を指差したので、カイトは言われたとおりに禁書を机の上に置いた。「さて、早速だけど、この本はね」 軽い口調のまま禁書の革表紙に手を置
「今のところ僕とシーマ卿だけが使えるってことになってる無属性魔法ってのは、他の属性と違って召喚魔法に特化してるんだよ」 微笑を浮かべるエルヴァは、魔法について説明するというよりゲームの遊び方について教えるといった口調で、放出するオーラから新たに無属性魔法を行使する可能性を見出したカイトへのレクチャーを始めた。「召喚、魔法……」 ファンタジーを題材とするアニメやゲームで見た召喚魔法の派手な演出を思い浮かべたカイトは、オウム返しに単語だけをぽつりと漏らした自分に気付き、慌てて質問を口にした。「その召喚魔法っていうのは、俺をこの世界に転移させた召喚術式とは別物なんですね?」 カイトの質問に対し、エルヴァはコクッと軽くうなずいてみせた。「召喚って同じ言葉を使ってるからややこしいけど、まったく別の系統だね。召喚術式は魔法ですらないし。で、その召喚魔法なんだけど、無属性以外の属性でも行使が出来る召喚魔法はある。ただ、火や土なんかの属性で召喚できる召喚獣ってそれぞれの属性でせいぜい十二、三種類ってとこ。僕たちが使う無属性は召喚魔法に特化してるだけあって、その種類は段違いに多い。天使シリーズが十五種、ギリシアシリーズが二十四種。合わせて三十九種が現時点で確認できてる」 エルヴァが付け加えるように言った「現時点で確認」という部分にカイトは反応した。「現時点で確認できているってことは、未確認のものが存在する可能性もあるってことですか?」 カイトの問いに対して、及第点を与える教師のように「うん」とエルヴァが首肯する。「その点では他の属性も同じなんだけど、魔法っていうのは言い換えれば「呼応する技術」でね。呼応の対象は四大元素だけじゃなくて神性も含んでる。神性を産み出す土壌となる世界は広い上に歴史も深い。探せば未知の召喚獣はいるだろうし、現に未知の召喚獣を求めて研究に没頭するってタイプの魔道士もいる。まあ、世の中が平和になれば魔道士は研究者にもなれるんだろうけど、今は忙しいから研究に時間を費やせる魔道士は少ないけどね」 エルヴァがぼやかした背景に、カイトは敢えて言及してみることにした。「戦争、ですか……?」「いやな時代だよ、まったくね。「戦争が研究を後押しする側面もある」なんてほざく奴もいるけど、僕は嫌いだ」「はい。俺も戦争を肯定的に捉える意見は嫌いです」 目
「その魔力の量だけでランク、位階は決まるんですか?」 カイトが率直な疑問を口にすると、エルヴァは軽いうなずきを返してから答えた。「そうなんだよね。魔道士の強さは魔力の量だけで決まるほど単純ってわけじゃ当然ないけど、魔力量が重要な要素っていうか強さのベースになっちゃうってのは、どうしてもあるから」「修行というか、訓練とか鍛錬みたいな方法で、魔力の量を増やすことは可能なんですか?」 間を置かずに質問したカイトのテンポに合わせるように、エルヴァもすぐに答えを返した。「ああ、それは無理なんだ。魔力の量って、魔道士としての血が顕現したときに決まってるんだよ。顕現度合とか魔道士としての血の濃さ、なんて言い方もするんだけど。大抵は四歳前後で表れる魔道顕現発達の時点で位階はほぼ決まっちゃって、ある程度は魔道士としての強さも決まっちゃうってこと。その魔力量を正確に測れるのが、ウァティカヌス聖皇国の聖皇なんで、通例として魔道士は十四歳までに聖皇に拝謁する。その拝謁で聖皇が魔力量に応じた位階の叙位と、その子が従三位以上なら称号の授与もセットでやっちゃう。言っちゃえば、まだ子供の頃に決まったランクを一生背負って生きるのが魔道士ってわけ」 生まれ持った才能で一生が左右される世界。カイトは率直に嫌な世界の形だと思った。「なんだか残酷な気もするんですが……」 カイトが感じた嫌な印象を口調に含めると、エルヴァはそれを肯定するようにうなずいた。「そうかもね。ただし、だ。魔道士の強さは魔力量だけで決まらないってのも事実だよ。上位の称号持ちが下位の魔道士に敗れるってのは珍しいことじゃない。実際の戦場だと、上位の称号持ちは地位も高いってのが相場だから、真っ先に狙われるって傾向もあったりするし」「戦い方次第ってことですか」「うん。たとえば土属性のベヒモスとか、水属性のレヴィアタンなんて有名どころの召喚獣は、四十ちょっとの魔力消費で召喚できるのに結構強い。上手く使えば上位の魔道士に対抗できる召喚獣とも言える。あとは、火属性のコーザサタニとかプグヌス・フランマエみたいに、術者がその身体を武器としちゃって直接的に攻撃するタイプの魔法も、究めれば有効なのに消費する魔力は少なくて済む。魔力量それ自体は変えられないけど、戦闘の練度は変えられるからね……さて、話がちょっと逸れたかな」 エルヴァが
「僕はちょっと手配してくるから、カイト君はその本でも読んで待っててくれるかな」 エルヴァの指示に従うことは、無自覚ながら既にカイトにとって自然な反応となっていた。「はい。分かりました」 カイトは自然な反応として素直にうなずいた。 エルヴァが軽い足取りで執務室を出て行くと、未だ夏の気配を残す白昼の日差しが射し込む明るい執務室に一人残されたカイトは、エルヴァの指示に従っていると自覚することもなく禁書を手に取ってページをめくった。 アルケーの次は、エクスシーアという天使が記されたページだった。 黄金色の甲冑に緋色のマントを身に纏い、背中には白い翼。その姿を伝える細密な具象画を見て、カイトは勇ましい姿の天使だと思った。 アルケーの時と同じように、エクスシーアを説明する文が脳にじわりと染み込んでいくような感覚があった。 ゾーンに入ったときの勉強、集中して暗記科目を勉強している時の感覚に近いが、さらに速く深く染み込んでいく感覚は不思議とカイトにとって気分がよいものだった。 エクスシーアの次は、デュナメイスという天使が記されたページだった。 金色の甲冑を身に纏い背中には大きな白い翼。長い槍を持っている。 デュナメイスのページもすらすらと読み終えて、カイトはページをめくった。 デュナメイスの次は、キュリオテテスという天使が記されたページだった。 漆黒のローブを身に纏い、左手に王笏……というより魔法少女が持つ魔法ステッキに近いとカイトが思った杖を持っている。 背中に白い翼があるのはアルケー、エクスシーア、デュナメイスと同様だったが、甲冑ではなくローブを身に纏っていることもあって、どこか兵士の印象を含んでいる今までの天使とは毛色が変わったようにカイトは感じた。 キュリオテテスを説明する文もすんなり読み終えたカイトが、次のページをめくろうとしたとき執務室にエルヴァが戻ってきた。「お待たせ。じゃあ、行こうか。禁書は持ってきて」「はい」 素直に応じたカイトは禁書を左手に持ち、エルヴァと一緒に執務室を出た。 王宮の左翼に当たる棟から出ると、馬車なら五輛が並んでも余裕がある広い車寄せに、屋根付きの豪奢な二頭立ての四輪馬車とエルヴァの秘書だという初老の男性が待機していた。 カイトとエルヴァを乗せた馬車は、王都プログレの目抜き通りを優雅に進んだ。 馬車の乗
翌日の昼前。肌を冷やす淋しさをいっとき忘れさせてくれるような心地好い日差しがそそぐプログレの港には、聖皇からの指名を受けて刑の執行人として出立しようとするカイトたちの姿があった。 聖皇の使者としてミズガルズ王国を訪れたヴェネーノは、カイトたちより先に汽船への乗船を済ませていた。 ビタリ王国の王位を簒奪したウアイラと、クーデターの主体となったトリアイナ魔道士団への断罪を裁定した聖皇の意思を代行する執行人という特異な任務に当たる渡航とあって、カイトら四人の出立を見送るのはレビンとステラ、そしてノンノの三人のみだった。 少数とはいえ筆頭魔道士団の威を示す純白の軍服を身に纏う魔道士たちの存在は充分に目立っており、七人を遠巻きにする港で働く人々の注目を集めていた。「さくっと終わらせて還ってくるんだよ」 ノンノがいつもの調子で声をかけると、カイトは調子を合わせるように軽い調子で応じた。「うん。そうするよ」「ピリカをお願いね」 ノンノが浮かべる快活な笑みに、わずかな心配の色が差すのを見たカイトは大きくうなずいてみせた。「分かった。必ず無事に、一緒に還ってくるから」「うん。任せた」 カイトに向けて明るい笑顔をみせるノンノの横で、真剣な表情を崩さないレビンにアルテッツァが声をかけた。「王都を頼むよ」「お任せください。旅の無事とご武運を祈っております」「ああ、武勲を立てて王都に戻るとしよう」「はい。凱旋の日を楽しみにしております」 微笑を浮かべて壮行を口にするレビンへ向けて、アルテッツァは力強い首肯を返した。 カイトに随行するアルテッツァ、セリカ、ピリカの三人と、ヴェネーノを乗せた汽船は予定通りに正午の鐘を合図に出航した。 汽船は最短の航路でウァティカヌス聖皇国を目指し、十一日後の一月二十九日には聖皇国のスペツィア港へと到着する予定となっていた。 カイトにとっては初陣の地となるであろうビタリ王国へと続く旅立ちだったが、その不安や緊張を顔には出さないように努めた。 天候にも恵まれ穏やかな船旅となった十一日の間、四人はヴェネーノも交えてポーカーに興ずるなどして時間を潰す余裕を持った空気を共有した。 一月二十九日の昼過ぎには、予定の航程を全うした汽船がウァティカヌス聖皇国のスペツィア港に入港した。 ふたたび聖皇国の地を踏むこととなったカイトに、
ビタリ王国の首席魔道士ウアイラによる王位の簒奪を受け、これを断罪する裁定を下した聖皇フィデスの署名が入った正式な刑の執行人への指名を受理。刑の執行に当たっての渡航に同行する三名の人選と、渡航の方法と日程の決定。 重大な決断と実務の処理を矢継ぎ早に行ったカイトは、深夜の帰宅から短い眠りを経て翌日も朝から王宮に赴き、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオとの事前の確認に併せて事後の方針に関する協議も済ませた。 「さすがにちょっとオーバーワークかな……」 思わずぼそっとつぶやいたカイトが屋敷へ帰る頃には、大陸からの厳しい寒気をなだめていた冬の陽もすでに傾き始めていた。 カイトが自室に戻ると、ストーリアが旅の支度を調えていた。 どの程度の滞在になるか期間のはっきりしない渡航の準備とあって、その荷物はなかなかの量にはなっている。「ただいま」 カイトが声をかけると、ストーリアは荷造りの手を止めて微笑みを返した。「おかえりなさいませ。お疲れでしょう。出立までは少しお考えにならない時間をお持ちください」 ストーリアが自然に言い添えた「考えない時間」という言葉にカイトは感心してしまった。 この異世界に来てから約四ヶ月。首席魔道士という国防を担う元帥、あるいは象徴的存在としての大元帥とも謂えてしまう立場に就いてからの約三ヶ月。未だに慣れない政治的な判断や決断を強いられてきたカイトが、いま最も欲しているのは思考から解放される時間だった。 いまの自分を一番よく分かってくれているのは、異世界にいきなり召喚された最初の長い一日からずっとそばにいてくれるストーリアなんだろうとカイトはあらためて思った。「カイト様……? どうかなさいましたか?」 少し感慨にひたる間を置いたカイトに、ストーリアが小首を傾げてみせる。「あ、いや。ストーリアはいつでも、俺が欲しい言葉をくれるなって思っただけだよ」 カイトの返答を聞いたストーリアは、荷造りのためにかがんでいた姿勢から立ち上がるとカイトをまっすぐに見つめた。「カイト様……ひとつだけ、約束していただけませんか?」「俺にできる約束なら……」 ストーリアがゆっくりとカイトのそばに寄り、その胸に自身の頭を寄せる。 カイトの心音を確認するように短い間を置いたストーリアは、頬を寄せるカイトにだけ届く声でお願いを伝えた。「必ず
翌日の昼過ぎに、聖皇の指名を受けたカイトが執行人としての渡航に同行するメンバーを探していると聞き及んだピリカが、王宮内にあるカイトの執務室を訪れた。 書類仕事を中断して応対したカイトに促されてソファに腰掛けたピリカは、向かいに座ったカイトをまっすぐに見つめて用件を口にした。「カイト卿。今回の指名を受けて、執行人として赴く卿と同行する魔道士に、あたしを加えてください。この機会をあたしは待っていたんです」 前置きを省いて本題から入ったピリカに対し、カイトはまずその動機を確認するための質問を返した。「危険を伴う任務に立候補していただき、ありがとうございます。ピリカ卿、ひとつだけ訊いてもいいでしょうか? 危険な任務の機会を「待っていた」という理由は何ですか?」「あたしは魔道士としてトワゾンドール魔道士団に席をいただき、ミズガルズ王国の男爵位もいただきました。ですが、侯爵領となったヌプリの先住民族をルーツとする出自は、決して変わるものではありません。あたしの親や親族に向けられる視線を変えるために、あたしは活躍して功をあげなくてはならない。それが理由です」 ピリカの碧い瞳に強い決意が宿っているのを感じ取ったカイトは、首肯を返してから答えた。「分かりました。今回の渡航への同行をピリカ卿にお願いします」「ありがとうございます」「いえ、礼を言うのは俺のほうです。おかげで初めての任務を受ける俺にとって最大の不安材料がなくなりました」 そう言って頭を下げるカイトを見たピリカが微笑む。「カイト卿。あたしも、ひとつ訊いてもいいですか?」「ええ、どうぞ」「親しい関係になった女性は、もういますか?」「えっ!?」 ピリカの唐突な問いに動揺したカイトの声が裏返る。同時にカイトの脳裏にはストーリアの顔が浮かんだ。「あたしでよろしければ、そちらにも立候補してよろしいですか?」「えー……と、とても魅力的な提案なんですが……」「答えは急ぎませんので、いまは立候補だけ受け取ってください。気長に待ってます」 ピリカの微笑みには裏に含んだ後ろめたさがなく、魅力的な女性だとカイトは率直に思った。 その日のうちに、カイトは聖皇の使者であるヴェネーノが滞在するホテルに赴いた。 ヴェネーノが宿泊する客室に直接通されたカイトは、すすめられるままソファに腰掛けると用件から口にした
出そうと思えばすぐに出せる答えだと分かっているのに、どうにも答えを出すという踏ん切りがつかない。 葛藤と呼ぶにはいささか情けない堂々巡りを独りで繰り返しているうちに、窓の外では陽が傾き初めていることに気付いたカイトが「きょうはもう屋敷に帰ろう」と立ち上がったタイミングで執務室のドアがノックされた。「はい。どうぞ」 カイトがノックに応じるとドアを開けて顔を覗かせたのはアルテッツァだった。 いつものアルカイックスマイルで右手を軽く上げたアルテッツァは、カイトに向けてくいっとグラスを傾ける動作を見せた。「カイト卿。ちょっと一杯、付き合いませんか?」「いいですね」 少し気分を変えたくもあったカイトは、渡りに船とアルテッツァの誘いに二つ返事で応じた。 カイトとアルテッツァは連れ立って、王宮からは少し離れた歓楽街の中にある二人が行きつけとしているバーへ移動した。 アルテッツァが時折、気心の知れたマスターが営むバーへカイトを誘うようになった三ヶ月ほど前から定席となっている、奥のテーブル席に座った二人はウイスキーで乾杯した。 のどを灼くウイスキーが今のカイトには心地好く感じられた。「聖皇陛下の使者殿は、何か難しい条件を提示してきましたか?」 探りを入れるような会話は省いて初めから核心に触れてきたアルテッツァに対して、カイトは素直に答えを返した。「ええ、俺を含めて四人と、人数を指定されました」「そうですか。前提を確認しますが、聖皇陛下の指名には応じるんですね?」「はい。俺は行かなきゃならない。首席魔道士としてお飾りじゃないってことを証明する必要がありますから。問題は同行してもらうメンバーを誰にするか……それを考えてたところです」「でしたら、私とセリカで二名は決まりです」 前もって用意していた答えであることを隠す様子もなくアルテッツァは即答した。「……いいんですか?」「もちろんです。王都の防衛も今はノンノがいますし、何より、カイト卿が初陣に出るとなったときには、必ず同行すると決めていました」「ありがとうございます」「礼には及びません。私が勝手に決めていたことですから。私はダイキ卿を護れなかった……あの屈辱を忘れたことはありません。今度こそ必ず役に立つことを約束します」「心強いです。助かります」「どうか、お任せを。しかし……ダイキ卿は今、
聖皇の使者としてミズガルズ王国の王都プログレを訪れたヴェネーノは道すがらの露店で王宮の場所を尋ねたりなどしながら、軽快ではあるが先を急がない足取りで王宮までの道を歩いた。 前もって待機していたウァティカヌス聖皇国の公使と王宮で合流したヴェネーノは、王宮内にあるカイトの執務室まで案内されると公使を執務室の前に待たせて単身でカイトと面会した。「はじめまして。ロザリオ魔道士団の第五席次を預かるヴェネーノ・バラメーダと申します。本日は聖皇陛下の使者として参りました」 ヴェネーノは口上を済ませると、気さくな仕草でカイトへ右手を差し出した。「カイト・アナンです。どうぞ、お掛けください」 カイトが握手に応じてから応接用のソファをすすめる。 ソファに腰掛けたヴェネーノは懐から薄い封書を取り出すと、微笑を添えてカイトに手渡した。 封書を受け取ったカイトはペーパーナイフで封を切り、書状の内容を確認してからヴェネーノと向かい合うソファに腰掛けた。「御用向きは確かに承りました。返答はいつまでにすればよろしいでしょうか」 カイトの問い掛けにヴェネーノは微笑を浮かべたまま答えた。「私はプログレに三泊し、十八日の正午にはプログレを発つ予定でおります。それまでにいただけましたら」「分かりました。今回の執行にあたっての指名は、何人になりますか?」「はい。今回の指名は対象が個人ではなく筆頭魔道士団を対象にする稀有なケースとなっていますので、メーソンリー魔道士団の首席魔道士ヴァルキュリャ卿と、アイギス魔道士団の首席魔道士インテンサ卿も指名を受けております」 予測はできていたカイトだったが、実際にヴァルキュリャとインテンサの名を聞いて事態の大きさをあらためて実感した。「そうですか……なにぶん俺は初めてなので勝手が掴めていないのですが、単身で赴くものではないんでしょうね」「はい。個人への執行であっても指名された魔道士が単独で執行に当たることは、まずありません。特に今回は対象が複数、しかも筆頭魔道士団となっていますので……出来ましたらカイト卿を含め、四名でのご対応を、お願いしたいところではあります。ヴァルキュリャ卿とインテンサ卿にも同様の要請をお願いしております」 三人の首席魔道士に各々三人の同行を要請するという詳細を聞いたカイトは、敢えて驚きを素直に表した。「四名ですか
「それは具体的に、ゲルマニア帝国かガリア共和国、あるいはブリタンニア連合王国が、魔道士団と自国の軍隊を動かす可能性がある……と考えておくべき情勢ってことでいいんでしょうか?」 見解に食い違いがあってはならないと思ったカイトが質問すると、セルシオは首を横に振った。「全否定はできませんが、各国が軍を動かす可能性は低いでしょう。聖皇陛下がウアイラ卿とトリアイナ魔道士団への断罪を裁定され、刑の執行人を指名するという形をとると思われます」「その場合、刑の執行人に指名されるのは……?」「魔道士が犯した罪に際して、聖皇陛下の裁定を受けて刑の執行人に指名されるのは、罪を犯した魔道士よりも上位の位階を持つ魔道士、というのが慣例となっております。二十一年前に太魔範士であるシーマ卿がセナート帝国の帝位を簒奪した際にも、当時の聖皇陛下がすでに太聖であった唯一の上位位階を持つエルヴァ卿を、刑の執行人として指名したと聞き及んでおります。エルヴァ卿が指名を拒否したために、表向きには聖皇陛下の裁定は下されなかったとされましたが」 聖皇の指名を拒否するなんて不敬も、飄々としたエルヴァならやってのけるんだろうと納得してしまったカイトは、自分がいま立っている立場をあらためて思い知ることになった。「ウアイラ卿は魔範士……それよりも上位の位階、となると……」 すでに予測できてしまったが、自分で明言することは避けたカイトの意を酌んだセルシオが代弁するように答えた。「世界に二十名しか存在しない魔範士の上位となれば、自ずとその対象は六名のみとなります。太聖であるエルヴァ卿、太魔範士であるカイト卿とシーマ卿、英魔範士であるヴァルキュリャ卿、インテンサ卿、トゥアタラ卿。指名を拒否する可能性が高いエルヴァ卿と、ウアイラ卿の後ろ盾となっているシーマ卿を除けば、残るは四名。執行の対象が単独ではなくトリアイナ魔道士団となれば、複数人の指名となるのが濃厚。以上を踏まえ、カイト卿が指名される可能性は極めて高いと思われます」 カイトは椅子の背もたれに寄りかかり、一度だけふうと短く息を吐いた。「俺が指名されたら、受けるべきですよね……」「……危険を伴う難しい判断ではありますが、そうしていただければ対外的なメリットが大きいのは確かです」「ミズガルズ王国の首席魔道士は、お飾りの太魔範士ではなかった対外的に証明で
世界が大きく揺れ動く大戦の戦端となる『火の七日』がその年の三月に起こることなど知る由も無いカイトが、聖暦一八九〇年を迎えた元日の王都プログレは穏やかな冬晴れの下にあった。 大晦日にビタリ王国で起きた首席魔道士ウアイラが率いる筆頭魔道士団によるクーデターは、年をまたぐ周辺の国々には既に衝撃を与えていた。 長い歴史を誇り列強の一つにも数えられるビタリ王国での首席魔道士による王位の簒奪。それは二十一年前に起きた当時には大国ではなかったセナート帝国でのシーマによる帝位の簒奪よりも、大きな衝撃をもって報じられた。 電撃の報が未だ届くことなく元日を迎えた極東のミズガルズ王国では、王室主催の新年祝賀会が予定通りに催されていた。 ブレビス離宮を会場として正午から開催された祝賀会には、王族や有力な貴族と主要な政治家などが参席し、その中には当然に首席魔道士であるカイトの姿もあった。 王配であるケンゾーの孫として、サイオン公爵でもあるカイトの席は王族側に用意されていた。「なんの進展もないまま新年を迎えてしまうなんて、思いもしなかったです」 カイトの隣の席に座るヴェルデは頬をプクッと膨らませてみせた。 王太子の長女である王女殿下に対して、どう対応するのが正解なのかカイトは迷ったが一先ず詫びることにした。「すみません。何分まだ不慣れな仕事に追われていまして……」「忙しさを言い訳に使うのは出来ない男のすることですよ?」「そうですね……正直に言ってしまうと、俺は女性に対して奥手なんです」 性分を打ち明けるカイトにグッと顔を寄せたヴェルデは、真偽を確かめるようにカイトの目を覗き込んだ。「わたくし以外の女性とも進展はないんですね?」 ヴェルデの問い掛けに対して、ストーリアの顔が浮かんでしまったことを気付かれるわけにはいかないと焦ったカイトは真顔で返答した。「……ええ。ありません」 微妙な間を置いて答えたカイトの様子から女性の影を悟ったヴェルデだったが、敢えて問いただすことはしなかった。 「そうですか。なら許してあげます」「ありがとうございます」「ただ、男性が奥手なのは美徳ではありませんからね?」「肝に銘じておきます」 カイトの素直な返答に溜飲を下げたヴェルデは微笑みを浮かべてみせた。 翌一月二日の夕刻。 ミズガルズ王国の王宮内に用意されたカイトの執
ビタリ王国の国防を担い軍事力を示す象徴的存在でもある筆頭魔道士団を率いて、トリアイナ魔道士団の首席魔道士ウアイラが王都ロームルスで国王と王族の殺害に及んだという意味では、クーデターに近い謀反を起こした一八八九年の大晦日の早朝。 地球でのイタリアと酷似した国土を持つビタリ王国で、中部に位置するイタリアの首都ローマとほぼ同じ位置にある王都ロームルスから北西に四百キロメートルほど離れた、イタリアでいえばジェノバとほぼ同じ位置に国土を有すウァティカヌス聖皇国でも一つの事件が起こった。 サン・フィデス大聖堂からも程近い聖皇国の中心地にあるホテルの二階に、旅行客に扮したシャマルの姿があった。 ビタリ王国の第三王女であるソフィアが滞在する客室の前に立ったシャマルが「ラーミナ・ウエンティー」と最小限の声量で詠唱を済ませる。 自身が放った風の刃によってドアを破壊し、客室へと押し入ったシャマルを待ち構えていたのはイフリータだった。 火属性の召喚獣の一種である魔人イフリータは身の丈二メートルほどの女性の姿をしており、艶めかしい褐色の肌が透けて見える薄衣だけを纏わせている。 眼前にイフリータが立っているという想定外の事態に目を見開いたシャマルは「ここは一旦退くべきだ」と咄嗟に判断した。 「ラーミナ・ウエンティー!」 シャマルが詠唱しながらイフリータに向けて右手をかざし、風の刃を射出する。 凄まじい速度で迫る風の刃を、その軌道を読んだイフリータが炎を纏った拳で殴り飛ばす。「くっ……クッレレ……」 イフリータが難無く霧散させた風の刃を見て、逃走の時間稼ぎすら許されない焦りのまま自身を加速する魔法を詠唱しようとするシャマルに素速く接近したイフリータが、驚愕の表情を浮かべる横っ面を拳で殴りつけた。 物凄まじい威力の打撃によってシャマルは吹っ飛び、壁に打ちつけられる。 頸椎の骨折によって即死したシャマルを見下ろすアルトゥーラの視線は、蔑みを隠さない冷えきったものだった。「魔道士でありながら、その誉れを捨てて暗殺の真似事など……しかも殺気すら完全に消すことができない暗殺者もどき。戦場とは違う儀礼も制約もない戦闘への対応もお粗末ときた……」 アルトゥーラが侮蔑を口にしながらイフリータの召喚を解除すると、隣の寝室から恐る恐る顔を出したソフィアがか細い声でアルトゥーラの名
カイトが「火種」と感じたシーマの「想像力」は、カイトの予感を嘲笑うかのように苛烈な疾さで「引火」した。 地球と酷似する地形をもつ異世界テルスにあって十九世紀のイタリア王国とほぼ合致する国土を擁するビタリ王国。 魔道士の聖地であり、魔道士を制約する法規を司る総本山でもあるウァティカヌス聖皇国をその国土に内包するビタリ王国の王都ロームルス。 三千年の歴史を刻む世界的にも稀有な古都であるロームルスで最初の火は点った。 聖暦一八八九年が幕を下ろして次の年へとバトンを繋ごうとする十二月三十一日。 未だ夜明け前の暗がりの中にあって霧雨に濡れる王宮の表門に、一輛の馬車が乗り付けた。 馬車から降りた三人の姿に、表門に駐在する四人の門番たちの背筋が一斉にピンと張る。 三人はビタリ王国の筆頭魔道士団であるトリアイナ魔道士団の軍服を身に纏っていた。 深紅の地に銀糸の刺繍が施された軍服と同色のマント。マントにはトリアイナ魔道士団のシンボルである三叉槍のエンブレムが刺繍されており、その下に標されたナンバーは『Ⅰ』と『Ⅴ』と『Ⅵ』。 第五席次と第六席次を背負う魔道士は共に女性で、『Ⅰ』を背負った首席魔道士のウアイラにぴったりと寄り添うように立っている。 四人の門番のうちの一人が、恐縮を仕草に滲ませながらウアイラへと駆け寄った。「ウアイラ卿。大晦日の、それもこのような時間に、どうなされたのですか?」「陛下に用があってな」「陛下に!? そのような予定は聞いておりませんが……」「急を要する。通してくれ」「たとえウアイラ卿といえども、それはさすがにできません」 素直に困惑を顔に出しながらも役目を守ろうとする門番に対し、ウアイラは迷う様子もなく返答した。「そうか。では、致し方ない」 ウアイラが右手を門番にかざし「アルデンド」と短く詠唱する。 次の瞬間には門番が発火していた。 断末魔の叫びをあげることさえ叶わずに門番が燃え上がる。 予期しようのない突然の事態を前にして、呆気にとられることしかできない他の門番たちへ右の手のひらを向けたウアイラが、三度「アルデンド」と早口に連続して詠唱を済ませる。 瞬時に燃え上がり四つの炎の塊となった門番たちには目もくれず、ウアイラは第五席次の女性へ声をかけた。「ジュリエッタ。ここは任せた」「はーい。いってらっしゃい」 眼